私がどうしても違和感を感じてしまう話し方がある。
それは、
「◯◯だと思っていて、というのも△△だからだ」構文である。
なぜ、
「◯◯だと思っています。なぜなら、△△だからです」にしないのか。
今回は、
使う構文と使っている時の心情から感じたことを記していきたい。
==========================
まず、今回違和感を感じているポイントを明確にする。
それは、「思っていて、というのも」≠「思っています。なぜなら」の部分である。
そして、どう違和感を感じているのかというと、
「思っていて、というのも」構文が、
”ただ伝えたい”のか”論破・説伏したい”のか分からないからである。
そこで、下記2つのポイントに絞って考えていきたい。
⑴「思っていて、」≠「思っています。」− 読点と句点の違いからくる違和感
⑵「というのも」≠「なぜなら」− 一般論に責任を求めるか自分に責任を課すかの違い
⑴読点と句点の違いからくる違和感
そもそも、「思っていて、というのも」構文が発される状況というのは、
『これについて、どう思う?』という状況が多い。
つまり、この質問の意図としては、
あなたが思っている意見・考えを教えてくださいというものが大半なのである。
それなのに、句点で言い切らず、読点で理由を続けようとする。
考える理由を伝えることは非常に大切ではあるが、
どう思うかについて聞かれているのに、
読点で続けることで理由にウエイトを置いてるように聞こえて、
違和感を感じるし、どこか説伏して聞こえる。
意見・考えを求めているのに、
正論を言おうとしているように思える。
みんなが納得、説伏されるようなことを言わないと
恥ずかしいのか、はたまた否定されるのが怖いのかわからないが、
最近特に「思っていて、というのも」構文を使う人が多い。
耳をよくすまして聞いて欲しいのだが、
20代と30代、役職持ちその他というところに
使用頻度のラインが引かれる。
どっちがどっちかは言うまでもない。
⑵ 一般論に責任を求めるか自分に責任を課すかの違い
次に、「というのも」≠「なぜなら」の部分についてである。
非常に感覚的なもので大変恐縮ではあるが、
「というのも」を発する場合、というもの以後に責任の所在を、
「なぜなら」を発する場合、なぜなら以前に責任の所在が置かれると思っています。
つまり、『どう思う?』という質問に対し、
・「というのも」を使う場合
というのも以後の理由(一般論や世論が多い)に責任を置くので、
私が思ったことに責任はありません。もし否定するなら、世論にぶつけてくださいね?
別に思っているのは”私だけ”じゃないんで、責めないでください。
・「なぜなら」を使う場合
はい、”私は”そう思うんです。なぜなら以後という理由を、”私は”そう解釈したんです。
逆にどう思いますか?そうか・・・そういう考えも出来ますね、だったらこれはどうでしょう。
という、気持ちが隠れている気がするんです。
正直どちらが正しいとかはないと思います。
けれど、どんな人間になりたいかを考えると、
言葉の伝え方も意識していく必要はあるなと感じました。
=========================
以上、「思っていて、というのも」構文に対する僕が感じていた違和感の正体でした。
効果でるかわからないモノを扱っていた時、
責任の所在から逃げたくなって発していると気がつきました。
逆に、意識して「思っています。なぜなら」構文にすると、
面白いように意志が伝わる。
意志が伝わると、その人がどんな人かわかる。
どんな人かわかると信頼できる。
そんなサイクルに入る瞬間が最近増えてきたので、
備忘録としてlogります。
それでは!
それは、
「◯◯だと思っていて、というのも△△だからだ」構文である。
なぜ、
「◯◯だと思っています。なぜなら、△△だからです」にしないのか。
今回は、
使う構文と使っている時の心情から感じたことを記していきたい。
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まず、今回違和感を感じているポイントを明確にする。
それは、「思っていて、というのも」≠「思っています。なぜなら」の部分である。
そして、どう違和感を感じているのかというと、
「思っていて、というのも」構文が、
”ただ伝えたい”のか”論破・説伏したい”のか分からないからである。
そこで、下記2つのポイントに絞って考えていきたい。
⑴「思っていて、」≠「思っています。」− 読点と句点の違いからくる違和感
⑵「というのも」≠「なぜなら」− 一般論に責任を求めるか自分に責任を課すかの違い
⑴読点と句点の違いからくる違和感
そもそも、「思っていて、というのも」構文が発される状況というのは、
『これについて、どう思う?』という状況が多い。
つまり、この質問の意図としては、
あなたが思っている意見・考えを教えてくださいというものが大半なのである。
それなのに、句点で言い切らず、読点で理由を続けようとする。
考える理由を伝えることは非常に大切ではあるが、
どう思うかについて聞かれているのに、
読点で続けることで理由にウエイトを置いてるように聞こえて、
違和感を感じるし、どこか説伏して聞こえる。
意見・考えを求めているのに、
正論を言おうとしているように思える。
みんなが納得、説伏されるようなことを言わないと
恥ずかしいのか、はたまた否定されるのが怖いのかわからないが、
最近特に「思っていて、というのも」構文を使う人が多い。
耳をよくすまして聞いて欲しいのだが、
20代と30代、役職持ちその他というところに
使用頻度のラインが引かれる。
どっちがどっちかは言うまでもない。
⑵ 一般論に責任を求めるか自分に責任を課すかの違い
次に、「というのも」≠「なぜなら」の部分についてである。
非常に感覚的なもので大変恐縮ではあるが、
「というのも」を発する場合、というもの以後に責任の所在を、
「なぜなら」を発する場合、なぜなら以前に責任の所在が置かれると思っています。
つまり、『どう思う?』という質問に対し、
・「というのも」を使う場合
というのも以後の理由(一般論や世論が多い)に責任を置くので、
私が思ったことに責任はありません。もし否定するなら、世論にぶつけてくださいね?
別に思っているのは”私だけ”じゃないんで、責めないでください。
・「なぜなら」を使う場合
はい、”私は”そう思うんです。なぜなら以後という理由を、”私は”そう解釈したんです。
逆にどう思いますか?そうか・・・そういう考えも出来ますね、だったらこれはどうでしょう。
という、気持ちが隠れている気がするんです。
正直どちらが正しいとかはないと思います。
けれど、どんな人間になりたいかを考えると、
言葉の伝え方も意識していく必要はあるなと感じました。
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以上、「思っていて、というのも」構文に対する僕が感じていた違和感の正体でした。
効果でるかわからないモノを扱っていた時、
責任の所在から逃げたくなって発していると気がつきました。
逆に、意識して「思っています。なぜなら」構文にすると、
面白いように意志が伝わる。
意志が伝わると、その人がどんな人かわかる。
どんな人かわかると信頼できる。
そんなサイクルに入る瞬間が最近増えてきたので、
備忘録としてlogります。
それでは!
コメント
コメント一覧 (2)
昨日のNHK ニュース7で「災害は起きる前の準備が9割だと思っていて」(カットされてつなげられて)「覚悟を持ってやっています」と放送され、テロップでも修正せず流したので流石に一般的にどうなのだろうと数年越しでやっと検索し、うまく検索できず、やっとこちらに出会えました。
私は「っていて、こうこうです」の「こうこう」が「なぜならでつながる前文の理由」ではなく「だからでつながる前文の結果」であることが多くあります。
ただし私の疑問は「前文の結果」なのか明確に言わないもどかしさを感じる言い回しなのがとても気になります。
NHK の文も覚悟を持ってやっているのが前準備が9割の結果なのか、前準備が9割であることと覚悟を持ってやっていることを単に並列で言っているのかが明確でないからもどかしいです。
コメントいただきありがとうございます。
ピコリンさんのおっしゃる通り、「思っていて」の後には本来前文の結果が来るべきところ、理由を述べようとするが故に違和感を感じるんだなと改めて感じました。
言い方ひとつで変わる受け手の心情。
こういう違和感を大切にしていきたいですね。