私がどうしても違和感を感じてしまう話し方がある。

それは、
「◯◯だと思っていて、というのも△△だからだ」構文である。

なぜ、
「◯◯だと思っています。なぜなら、△△だからです」にしないのか。 


今回は、
使う構文と使っている時の心情から感じたことを記していきたい。 


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まず、今回違和感を感じているポイントを明確にする。
それは、「思っていて、というのも」≠「思っています。なぜならの部分である。 

そして、どう違和感を感じているのかというと、
「思っていて、というのも」構文が、
”ただ伝えたい”のか”論破・説伏したい”のか分からないから
である。

そこで、下記2つのポイントに絞って考えていきたい。
⑴「思っていて、」≠「思っています。」− 読点と句点の違いからくる違和感
⑵「というのも」≠「なぜなら」− 一般論に責任を求めるか自分に責任を課すかの違い
 

⑴読点と句点の違いからくる違和感
そもそも、「思っていて、というのも」構文が発される状況というのは、
『これについて、どう思う?』という状況が多い。

つまり、この質問の意図としては、
あなたが思っている意見・考えを教えてくださいというものが大半なのである。

それなのに、句点で言い切らず、読点で理由を続けようとする。
考える理由を伝えることは非常に大切ではあるが、

どう思うかについて聞かれているのに、
読点で続けることで理由にウエイトを置いてるように聞こえて
違和感を感じるし、どこか説伏して聞こえる。

意見・考えを求めているのに、
正論を言おうとしているように思える


みんなが納得、説伏されるようなことを言わないと
恥ずかしいのか、はたまた否定されるのが怖いのかわからないが、
最近特に「思っていて、というのも」構文を使う人が多い。

耳をよくすまして聞いて欲しいのだが、
20代と30代、役職持ちその他というところに
使用頻度のラインが引かれる。

どっちがどっちかは言うまでもない。


⑵ 一般論に責任を求めるか自分に責任を課すかの違い
次に、「というのも」≠「なぜなら」の部分についてである。

非常に感覚的なもので大変恐縮ではあるが、
「というのも」を発する場合、というもの以後に責任の所在を、
「なぜなら」を発する場合、なぜなら以前に責任の所在が置かれると思っています。

つまり、『どう思う?』という質問に対し、

・「というのも」を使う場合
というのも以後の理由(一般論や世論が多い)に責任を置くので、
私が思ったことに責任はありません。もし否定するなら、世論にぶつけてくださいね?
別に思っているのは”私だけ”じゃないんで、責めないでください。

・「なぜなら」を使う場合
はい、”私は”そう思うんです。なぜなら以後という理由を、”私は”そう解釈したんです。
逆にどう思いますか?そうか・・・そういう考えも出来ますね、だったらこれはどうでしょう。

という、気持ちが隠れている気がするんです。


正直どちらが正しいとかはないと思います。
けれど、どんな人間になりたいかを考えると、
言葉の伝え方も意識していく必要はあるなと感じました。

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以上、「思っていて、というのも」構文に対する僕が感じていた違和感の正体でした。

効果でるかわからないモノを扱っていた時、
責任の所在から逃げたくなって発していると気がつきました。

逆に、意識して「思っています。なぜなら」構文にすると、
面白いように意志が伝わる。
意志が伝わると、その人がどんな人かわかる。
どんな人かわかると信頼できる。

そんなサイクルに入る瞬間が最近増えてきたので、
備忘録としてlogります。


それでは!